2章 顧客を奪取する

1:顧客の奪取を決意する
2:ライバルの悪口が裏目にでる
3:危険な情報を送る愚を犯す
4:ライバルを甘くみないこと 
5:予期せぬ利益を与えない
6:奇襲は危険すぎる
7:強者連合を追求する
8:適応ではなく、打開を追求する
9:深刻な脅威の突発 
10:起死回生の幸運
11:教訓
付論:戦いの9原則

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1:顧客の奪取を決意する

 

きちんとした接客をすることは意外と難しいものですが、顧客にとっては当たり前のことにすぎず、それだけで集客ができるはずがありません。そして、リゾ-トホテルの最大の課題は「平日客をいかに集め、客室稼働率を高めるか」です。しかも、私には平日客を大量に集客する責任が重くのしかかっていました。なぜなら、1章で記したとおり、冬の1シ-ズンに、しかも主に平日に、東京より6000泊の送客をしていた航空会社のスキ-ツア-の契約が解消されたからです。

 

 この大失敗をカバ-するだけでも北海道の中から6000泊分の平日客を集めなければなりません。とりあえず平日に宿泊する団体客を調べました。その結果、当時、北海道に5万名の兵力を配備していた陸上自衛隊で30~200名の部隊単位の1、2泊の慰安旅行が、スキ-も兼ねて2~3月の平日に行われていることを知りました。この費用は隊員の積立金によりまかなわれ、行く先も隊員が決める旅行でした。

 

それは厚生旅行と呼ばれていましたが、その過半は地元で最大最強の旅行社であり、また、社長が元幹部自衛官であるS社が受注していました。そこで、S社に自衛隊の厚生旅行を回してくれるように頼みました。しかし、S社とは取引実績がなく、「実績のないホテルには送客できない」と取り合ってくれませんでした。まあ、当然の反応ですが「ならば、直接、厚生旅行を獲得するのみ」と決意し活動を開始しました。

 

それは、弱小ホテルが強力なS社の顧客を奪う困難かつ危険な試みです。しかし、他に大失敗をカバ-し、またホテルを救う道はなく、危険を承知で試みたのです。そして、自衛隊内に営業拠点をもつ生命保険会社の外交員や、ホテルと利用契約をしていた自動車販売会社に勤務する元幹部自衛官などの協力を得て自衛隊の各部隊を回りはじめました。

 

2:ライバルの悪口が裏目にでる

 

自衛隊でのセ-ルス活動は難航し、元幹部自衛官が社長であるS社が自衛隊に強い理由がよく分かりました。それはS社をえこひいきしているのではなく、機密保持のために簡単に部外者を寄せ付けない気風とシステムのためでした。おかげで様々な失敗をしましたが、11月に入ると、厚生旅行の予約がいくつかとれはじめました。

 

ところが、その段階でS社の営業本部長から呼び出されました。訪問すると「ホテルが、旅行代理店の客を奪うとは何ごとだ。自衛隊からただちに手を引け。さもないと、自衛隊に出入りできないようにする。旅行業界からも追放する」と言い渡されました。これに対し、私は「手を引けば、厚生旅行を私のホテルに回してくれるのか」と尋ねましたが「回さない」とのことなので、「自衛隊から手を引く気はない」ことを伝え、退出しました。

 

実は、その時点までに、S社からの攻撃をいろいろと想定し備えていました。それらは心許ないものでしたが、自衛隊に出入禁止を働きかけることは想定のうちであり、対策済みでした。すでに、北海道の自衛隊の最高幹部とその幕僚たちの奥さんグル-プに自衛隊協力会の会長の推奨でホテルを利用してもらっていました。また、最高幹部のいる司令部の幹部自衛官たちのところへは特に頻繁に訪問して信頼関係を築き、7,8名の利用実績があり、いずれも好評でした。そのなかにはトラブル案件を担当する総務課長も含まれており、課長にはS社との対立の発生を伝えておきました。

 

 S社の社長は、そうとは知らずに最高幹部を訪問し、「評判が悪く、客が来ないことに困ったホテルが、隊員たちにいい加減なことを言って、厚生旅行を取り込もうとしている」といった趣旨の誹謗をしました。当然ですが、それは裏目にでて、S社の印象は悪くなりました。一方、私の方は、以後、個々の部隊への訪問もチェックされずにできるようになり、厚生旅行のセ-ルスを気がねなく順調に展開できるようになりました。

 

よく、「ライバルの悪口は言うな」と言われますが、S社の社長の行動は、その見事な失敗事例となったのです。特に、顧客に、その顧客との関係を持ったライバルの悪口を言うのは、裏目にでる可能性が大きい危険な行為

 

3:危険な情報を送る愚を犯す

 

S社は、他の旅行社にも「旅行代理店の客に直接セ-ルスをかける、商道徳をわきまえない、とんでもないホテルだ。気をつけろ」といった趣旨の注意を発しました。これに対し、私は「客を回してくれない旅行社は代理店ではないと思う。それに、自衛隊以外、どの旅行社の客もとっていない」と注意された旅行社に釈明し、納得してもらいました。

 

 簡単に納得してもらえたのは、それ以前から、ホテルで直接受注した団体客を、それらの旅行社の扱いに回していたからです。それは、良好な取引関係を作り、積極的に送客してもらうためでしたが、それを知らずにS社が発した注意はひんしゅくを買いました。

 

しかも、S社の注意は、他の旅行社がS社の独壇場と思っていた自衛隊マ-ケットが、弱小ホテルに切り崩されはじめたことを自ら吹聴するものでした。それは、敵に塩どころか、危険な情報を送る愚を犯すものでした。いくつかの旅行社が自衛隊向け活動を強化し、S社は、数年後に、業績の悪化と、深刻な問題を発生させてつぶれました。

 

ただし、つぶれたのは、私のせいではないはずです。いくら怒ったとはいえ、一介のホテルの誹謗中傷と出入禁止要請を、社長自らが、総務課長のような担当幹部を飛び越し、5万名規模の方面軍の最高幹部に直接なすというのは異常であり、こういった人間は、いろいろなところで大きなあやまちを犯すものです。S社倒産の報に接した時は、「つぶれて当然」と思いました。

 

ただし、その社員のことを思うと暗い気持ちになりました。なぜなら、彼らの多くはホテルにも威張らず、ひたむきに仕事をしていたからです。それを知ったのは、厚生旅行の奪取を決意した後、S社の営業部門や各営業所を回り、その特性把握につとめていたからです。ちなみに、その時は「こういった営業マンたちが相手では勝ち目は薄いな。しかし、やるしかないな」と思いました。威張らず、ひたむきに仕事をする社員をかかえた会社ほど強い会社はないと思います。私にとって幸いだったのは、肝心の社長が、そうではなかったことです。

 

4:ライバルを甘くみないこと

 

 S社は悪口をいったことだけでなく、さらに重大な初歩的ミスを犯しました。新たなライバルの出現に対し、戦力を増強して対抗しなかったのです。主戦場となった、1~2万名の自衛官を擁する札幌地区の札幌、真駒内、丘珠、豊平の4駐屯地に対し、S社は年配の課長と一人の若い営業マンしか配していなかったのです。これは、他の旅行社やホテルが「自衛隊ではS社にはかなわない」と思い込んで参入せず、無競争に近かったからです。

 

 そこに直接集客を試みるホテルが出現し、実際に、顧客を奪取しはじめたのですから、S社は営業マンを増やして対抗すべきです。しかし、営業マンは一人のままであり、しかも彼は、自衛官への航空券、国内・海外旅行、新婚旅行などのセ-ルスも担当していました。これでは、存亡を賭けて厚生旅行の奪取のみに走るホテルに対抗できません。

 

 S社が、戦力を増強しなかったのは、いろいろ仕事を抱えた営業マン一人では、どれだけの厚生旅行が奪取されているかを正確につかめず、状況の深刻さに気づいた時は手遅れだったことが考えられますが、その根本原因はライバルを甘く見たことです。もし、S社が、ひたむきな営業マンを2~3名追加投入し、厚生旅行獲得に専念させたなら、私の勝ち目はなかったでしょう。

 

なぜなら、S社の社長のホテルへの誹謗中傷への不快感は自衛隊上層部の一部にとどまっていたからです。しかも、私の方が先制攻撃を仕掛けたため、S社は私の手の内を簡単に読むことができ、的確に逆襲できたはずです。たとえば、私がとった手段のひとつに、「厚生旅行で用いる貸切バスを従来の4割の格安料金で紹介」があり、大きな効果を発揮していました。それが可能になった理由は3章で説明しますが、そのバスを提供してくれたバス会社はS社を大口顧客としていました。もし、S社がそれを知り、バス会社に「格安バスの提供中止」を要求すれば即刻中止となり、私の方は大きな打撃を受けたでしょう。しかし、S社はそれに気づきませんでした。まあ、裏を返せば、私は、それだけあやうい活動を展開していたのです。

 

5:予期せぬ利益を与えない

 

 自衛隊での集客活動をしたおかげで、多くの自衛官と知り合いになり、軍事理論をいろいろと教えてもらい、テキストなども借りました。その内容は、勝利だけでなく、数多くの敗北の教訓もふまえたものでした。それは、もっぱら成功事例をもとにあれこれ論じる経営論より、はるかに実感にマッチしました。そして、「これは経営でも使える」と思い、以後、活用することになりました。そのなかに、アメリカ陸軍が開発し陸上自衛隊も採用している戦いの9原則というものがありました。

 

そのなかに「決して敵に予期せぬ利益を与えてはならない」という警戒の原則がありましたまさに、S社の社長のひどい誹謗と営業マンの増強がなされなかったことは、敵である私に予期せぬ利益を与えてくれました。おかげで、私の行動は「敵を、その準備していない時期、場所及び方法で打撃せよ」という奇襲の原則の実行となりました。さらに、厚生旅行の獲得のみを追求したのは「あらゆる行動を、明確で決定的な目標(タ-ゲット)に指向せよ」という目標の原則の実行そのものでした。そして、それらの結果、「主導性を維持し、保持し、さらにこれを拡大せよ」という攻勢の原則を実行できたのでした。

 

6:奇襲は危険すぎる

 

 自分の行動を戦いの原則の模範的な実行例だと思い、悦に入った私は、作戦幕僚である幹部自衛官に「警戒の原則を怠った旅行社に対し、奇襲、目標、攻勢の原則を実行して戦い、優勢を維持している」と威張りました。しかし、彼は、私のやっていることとS社のやったことをじっくりと聞いた上で、概略、次のように言いました。

 

「商売のことは知らないが、君の戦果は幸運の産物だと思う。また、強者への奇襲は一時的に戦果を上げても、逆転されないことはめったにない。日本の戦史でも、強者への奇襲が最終的な勝利までゆきついたのは、源義経の鵯越の逆落とし、毛利元就の厳島の戦い、織田信長の桶狭間の戦いの3つしかない。それが有名なのは、たった3つの成功例しかないからだ。おまけに、商売ではいくら戦果を上げても、戦争と違って、相手の指揮系統や人間は無傷のままだろう。一刻も早く、S社と仲直りした方がよいと思う」

 

それは、私の不安をえぐりだすものでした。しかし、さんざん顧客を奪った後で、S社に「ごめんなさい」と言っても、許すはずがありません。そんな弱みをみせれば、逆に、たたかれるだけです。結局、「逆襲された時は、その時だ」と居直り、攻勢をかけ続け、「厚生旅行に攻勢をかける」なんてダジャレをとばしました。

 

7:強者連合を追求する

 

 悲観的に考えれば落ち込むだけです。そして、逆襲されても一気に粉砕されないよう、他の旅行社との関係を深めることに努力しました。いざとなったら、売上を10%下げ、利益を数10%下げますが、獲得した全ての厚生旅行を信頼できると感じた2、3の旅行社に帳合いで回し、その積極協力を仰ぐことを考えました。

 

それは、軍事テキストにあった「最悪を想定せよ」との教えの実行と「強者連合の追求」です。軍事戦略で最も重視されるのは戦力の強化であり、なかでも強い国と組む強者連合が最重要課題とされていました。まあ、子供でも分かる理屈であり、自分より強い相手とケンカするなら加勢を頼み、相手より強力な陣容を整えることです。そして、弱い国と組む弱者連合はタブ-とされていました。たしかに、日露戦争の勝因のひとつはイギリスと組んだことであり、太平洋戦争の決定的な敗因はドイツやイタリアと組んだことでしょう。

 

ただ、こういった発想は、当時の経営戦略論では、私が知る限りではありませんでした。戦略的連携とかアライアンス(連合)コラボレ-ション(協働)が大事と言われ、連合の重要性が説かれるようになったのは1990年代の中頃からではないかと思います。この点、軍事の戦略論は、実感にマッチするだけでなく、説得力に富むものでした。

 

ちなみに、ホテルに着任した1980年に、マイケル・ポ-タ-『競争戦略論』がベストセラ-となり、読みましたが、仕入先や販売先を、かけひきをする油断のならない敵のように位置づけています。まあ、取引にかけひきはつきものですが、その発想は、味方にすべき取引先を敵対視しすぎており、取引先との信頼関係の形成を妨げる、あぶなっかしい孤軍奮闘戦略論だと思いました。

 

8:適応ではなく、打開を追求する

 

経営戦略論についてさらに言えば、経営戦略を「会社の存続発展のために環境への適応を追求するもの」とみなす考えが主流でした。しかし、強力な旅行社から顧客を奪取することに必死になっていた私にとって、適応という言葉のイメ-ジは、あまりにものどかで、受動的で、ぴんとこないものでした。環境への適応を考えれば、自分よりはるかに強い敵に正面から短期決戦を挑むという発想も行動も生まれず、ホテルはつぶれるのみです。

 

ところが、軍事のテキストから、1870年に、極めて勝算が小さかったフランスとの戦争に勝ち、ドイツ統一に成功したプロイセンの参謀総長ヘルム-ト・フォン・モルトケ「戦略とは状況を救済する術なり」と論じたことを知りました。ようは「戦略は、困難な状況を打開する策だ」ということです。私は「これだ」と思い、以後、「経営戦略は、逆境を打開するもの」と決めました。

 

なお、私が気に入った軍事用語がひとつあります。それは威力偵察です。収集した情報だけでは敵の戦力や意図などの敵状が分からないので、小部隊で敵地へ侵入し、場合によれば実際に戦い、敵の戦力や布陣などの状況をつかむのです。会社の場合なら、アンケ-ト調査ではよく分からないのでテスト販売をするとか、どこかの店舗や地域で限定販売をするといったところでしょう。そして、私の行動の半分以上は威力偵察だと思い、自分の行動を客観的に理解するのに役立ったのです。

 

9:深刻な脅威の突発

 

 不安でいっぱいながらも、「厚生旅行に攻勢をかける」なんてダジャレまでとばすくらいの余裕をもつに至ったのですが、好事魔多しというか、S社の逆襲どころではない、とんでもない脅威が突発しました。札幌地区の部隊の間に「有事即応のため、札幌のはずれの定山渓までの近距離旅行とするか、中止すべき」という厚生旅行見直し論が飛び交いはじめたのです。そして、「おたくのような遠くのホテルへは行けない」と言われはじめました。

 

当時の自衛隊では有事即応体制が盛んに唱えられていました。それは、次のような1980年代前半ソ連侵攻説によるものです。「ソ連の経済力は1980年代後半から急減し、1990年前後には体制が崩壊する。したがって、ソ連は、国力が残っている1980年代中頃までに、存亡を賭けて西側陣営に戦争を仕掛ける可能性が高い」。

 

そして、北海道では、陸上自衛隊とアメリカ海兵隊のはじめての共同演習が「やまざくら」というコ-ド名で実施され、訓練スケジュ-ルが大幅に変更され、戦闘服の階級章が敵から識別されにくい色に変わるなど目の前で大きな変化が生じました。それは、後日のソ連崩壊で証明された正確な将来予想と、最悪を想定し、最悪に備える努力の追求でした。

 

 それが厚生旅行見直し論を生んだのです。そこまでピリピリする必要はなく、過剰反応と思いました。しかし、そんなことを思ってもどうしょうもありません。これでは厚生旅行の獲得は絶望であり、目の前が真っ暗になりました。

 

 ところが、副戦場と位置づけ、時たま訪問していた恵庭・千歳地区の各部隊では、厚生旅行見直し論は、「ひとつの考えとしてある」といった程度でした。「あれっ」と思い、岩見沢、旭川、さらにはホテルより数百キロ離れた留萌(るもい)の各部隊を訪問し、厚生旅行の売り込みをしました。ようは威力偵察です。そこでは、厚生旅行見直し論が存在する気配は全くなく、ピリピリしているのは札幌地区だけであることが判明しました。

 

それは、札幌地区が北海道の自衛隊の最高指揮官のお膝元であるからでしょうが、その最高指揮官自身、厚生旅行についてまでは何も言っていないはずです。もし、最高指揮官が命じていれば、どの地区のどの部隊も厚生旅行の見直しを検討しているはずです。となると、「札幌地区の各部隊のピリピリム-ドをどう解消させるか」が課題となります。

 

他の地区を主戦場に切り替えるという策もありますが、それは遅すぎます。もう、予約がどんどんはじまっています。しかし、一介のホテルが、有事即応を追求し気合いの入っている軍隊に「ピリピリしすぎじゃないの」なんて言うと、たたき出されてしまいます。考えあぐねましたが、これといった妙案が思いつきませんでした。ただ、札幌地区が全滅でも、少しでも厚生旅行を獲得しなければと思い、厚生旅行見直し論が希薄な恵庭・千歳地区や、航空自衛隊の千歳基地や長沼、八雲といった対空ミサイル部隊を回りました。

 

10:起死回生の幸運

 

恵庭・千歳地区や航空自衛隊では、間一髪でいくつかの厚生旅行を獲得しました。また、思いがけないことに、対空ミサイル部隊にはS社がほとんど回っておらず、厚生旅行をあっさりと獲得できました。しかし、その合計は800泊程度であり、札幌地区が全滅ではどうしょうもありません。憂鬱になる一方でしたが、突然、大きな幸運が飛び込みました。

 

それは、留萌に駐屯する連隊の1個中隊200名が、厚生旅行で2連泊することを決めたのです。私が遠くから売り込みに来た意気に感じてくれたのです。留萌はホテルから遠く、しかも、その部隊は、宗谷付近に上陸するソ連軍部隊と戦うための最前線部隊です。それがくるのであれば、札幌地区の部隊がくることには何の問題もないはずです。

 

そこで、私は、札幌地区の各部隊に「留萌の部隊が厚生旅行でうちのホテルを利用する」と言いふらしました。また、最高司令部の総務課長など、親しくなった幹部自衛官に限ってですが、「厚生旅行の見直しが必要なほど、極東ソ連軍に侵略の兆候はみられないでしょう」と文句を言いました。その効果のほどは分かりませんが、厚生旅行見直し論は影を潜めてゆきました。厚生旅行を楽しみにする一般隊員たちの反発があったのかも知れません。

 

とにかく、以後、順調に札幌地区で活動が再開でき、S社の逆襲もなく、厚生旅行と自衛官の家族・グル-プ利用の宿泊数は4000泊に達しました。しかも、その売上と利益は航空会社のツア-客の6000泊の売上を大きく上回りました。なぜなら、ツア-の契約料金は非常に安いのに対して、厚生旅行は、各隊員が1年間も費用を積み立てているため、高額の宴会が伴い、1人あたりの売上が約2倍になるからです。以上、自衛隊をタ-ゲットとした集客活動のサクセススト-リ-ですが、今、同じ状況を与えられても、成功する自信はゼロです。とても、「努力すれば幸運に恵まれる」とは言えません。

 

11:教訓

 

本章で紹介した経験からえた教訓は次のとおりです

 

①ライバルの悪口は言うな。特に、顧客に、顧客と関係のあるライバルの悪口を言うな。

 ②ライバルを甘く見るな。特に、新たなライバルを甘く見るな。

③ライバルに予期せぬ利益を与えるな。

④あらゆる行動を、明確で決定的なタ-ゲットに指向せよ。

⑤主導性を維持し、保持し、さらにこれを拡大せよ。

最悪を想定せし、最悪に備えるための努力をできるだけせよ。

⑦誠実で、優れた取引先との強者連合の追求せよ。取引先を敵視するな。

環境への適応ではなく、打開を追求せよ。

⑨実際に売り込む威力偵察を励行し、状況を早く正しくつかめ。


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付論:戦いの9原則

 

本章で引用した戦いの9原則は、1920年にイギリス陸軍のフラ-少将が提唱した8つの原則に、翌年、アメリカ陸軍が簡明の原則を加えたものです。この原則は、一度破棄されましたが、1949年のアメリカ陸軍作戦マニュアル(FM100)で復活し、今日も用いられており、陸上自衛隊もこれに準拠した原則を用いています。その原則を、以下にまとめて示します。

 

戦いの9原則

①目    標:あらゆる行動を明確で決定的な目標(タ-ゲット)に指向せよ。

②集       中:緊要な時期と場所に戦闘力を集中せよ。

③攻    勢:主導性を維持し、保持し、さらにこれを拡大せよ。

④機       動:戦闘力の柔軟な運用により敵を窮地に陥れよ。

⑤奇    襲:敵を、その準備していない時期、場所及び方法で打撃せよ。

⑥指揮の統一 :責任ある単一指揮官の下に努力を統一せよ。

⑦簡       明:完全に理解できる、明瞭で簡潔な計画と命令を準備せよ。

⑧節    用:非重点正面には、必要最低限の戦闘力を割り当てよ。

⑨警    戒:決して敵に予期せぬ利益を与えてはならない。

注:以上の原則の記載順序と文面は、著者の判断で修正した。

  用語は陸上自衛隊で用いられている用語をそのまま使用した・             

 

①攻撃のための原則:攻勢、集中、節用、奇襲、機動

②防御のための原則:機動、警戒  

③運用のための原則:目標、指揮の統一、簡明  

 

こういった原則のいくつかを示す経営論はありますが、ここまで網羅的に、かつ整然と示したものはないと思います。なお、ここでの目標は、タ-ゲットすなわち攻略対象であり、会社の場合は顧客であり、売上や利益といった業績目標ではありません。

 

また、集中を、経営論では「経営資源を集中させて優位性を確保するという常時集中の意味」で用いられます。しかし、軍事の場合、同様の意味でも用いられますが、集中した敵を、自軍の戦力を分散させて多方面から一斉に攻撃するという集中攻撃の意味でも用いられます。そこで、集中を「緊要な時期と場所に戦闘力を集中せよ」としているのです。

 

ちなみに、19世紀、欧米では、ナポレオンの参謀をしていたアントワ-ヌ・アンリ・ジョミニが、ナポレオンが勝った事例だけをもとにして、集中してから攻撃することを奨励する内戦戦略論を次のように説き、軍事常識のようになっていました。「できるかぎり大きな戦力を、結合された力として、決定的なポイントに向けて運動させよ。つねに、この不変の確立された原則、すなわち大量集中攻撃およびその持続という健全な原則にもとづかなければならない」(『兵術要論』1838年)

 

しかし、1870年に、モルトケを参謀総長とするプロイセン軍が分散進撃し、一個所に集中したフランス軍を多方面から攻撃、撃破するという外線戦略に成功しました。そのさい、ナポレオン3世も捕虜になりましたが、それ以来、軍事では、集中してから攻撃の内戦戦略論の信用は失墜し、今日に至っています。経営でも、1920年代に、フォ-ドの圧倒的シェアを奪取し、同社を倒産寸前まで追い込んだアルフレッド・スロ-ン率いるGMや、今日のセブンイレブン地域集中出店戦略も、単純な集中戦略ではなく、周到かつ高度な外線戦略に近いように思います。

 

 

 

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3章 タ-ゲットの追加

 

1:タ-ゲットを期間ごとに変える

 

 自衛隊の厚生旅行をタ-ゲットとする集客は、失敗の可能性が極めて高い試みであり、失敗した場合でも破綻しないだけの売上と利益を確保する備えが必要でした。また、ホテル再建のためには、さらに多くの平日集客をする必要があります。

 

                       ・・・・・以下、次号に続く